フラワーデザインにセンスは必要ない。
私たちは何度もそうお伝えしてきましたし、それは「センスがない=これは間違い」という思考に縛られているからだと思うよーというお話もしてきました。
初心者の方は、ほぼ ↑このパターンだと思うのですが、
実際にフラワーアレンジメントを習っている人で、
- 自分の作品に自信が持てない
- 先生にOKと言われても、なんとなく違和感を感じる
という場合、とりあえずは正解に向かって、全力で突き進んでいるわけですよね。
突き進んだ結果、それでも何か違う…と感じる理由って何だと思いますか?
私が思うに、「誰でもココロの奥の奥には自分だけの”好き”を持っている」からじゃないかなぁと思うのです。
またしても、にこはな・菊池が生徒さんたちの様子や言葉から感じ、分析した研究結果なので、「そういうこともあるかもね」というスタンスでお読みいただけたら、と思います。
あなたの意識の奥にはたくさんの”好き””心地よい”が眠っている
例えばなのですが、私たちは生まれつき、自分だけの好みをもって生まれてきますよね。
味覚とか嗅覚とか。
同じ親から生まれた兄弟であっても、感じ方はまちまち。
それと同じように、音楽の好みとかもそれぞれだってこと、普段の生活でも感じているし、お互いに認め合ってますよね。
見える世界のバランス感覚もそうなはずなのです。
絵画でも好き、嫌いがあるように、どんな風にお花が配置されているのが気持ちいいか?って、人それぞれ。
つまりですよ。
フラワーアレンジメントの世界にだって、自分の好きがあって当然だし、あってもよいわけです。
“好き”を奥に押しやって”正解”で蓋をしてしまっていませんか?
私たちは、わかりやすく表面に出ない好みに対しては、自分の中でも自分には好みがあるとしっかり認めることができていて、それを口に出すかどうかは相手によって決めています。
例えば。
「これおいしいね~」と自分が好きではないお料理について相手が発したとき。
気を許せる相手ならば「えー。そう?いまいちじゃない?」と言うし、気を遣う相手なら「そうですね」とうそをつきますよね。
でも、心の奥では、自分の中の感覚を修正しなきゃ!とは思わないですよね。
なのに、好みを表現する場になると、周りから情報を探し出し、「正解」サンプルを見つけるという行動をしたがりりませんか。
自分の好きなものを人の目の前にさらす。(その行為に緊張感を感じない人もいるかもしれませんが)
そういう場合には、「正解したい」そんな考えが頭を支配して、「好き」を封印して、これはこれが正しいのである、という意識に塗り替えます。
つまり、自分の好きに「正解」の蓋をするんですよね。
フラワーアレンジメントはその代表例な気がします。
あなたはどうですか?
正解じゃないとダメだ。正解したい。
そんな風に思っていませんか。無意識でも。
実はこの正解の蓋、誰もが同じぐらいの厚さ、重さ、大きさじゃないのですよ~
“正解”の蓋がガチガチで外れないけど”好き”がうずいているパターン
一般的なフラワーアレンジメント教室でしっかり学んでいる場合、正解を教えてもらっているわけだから、そこの先生に「OKよ」と言われれば、「合格」なわけですよ。
なのに、なにかが納得いかない。
本人は「これは正解じゃない。私は何かが間違えている」と思いがちだと思いますが、私はそうではないと思うんですよね。
自分の奥に隠しておいた”好き”が叫んでいるのじゃないかな。
自分なりに精一杯の正解を表現できていても、「何かか違う」と気持ち悪いのだと思います。
いま目の前にある作品が「正解」かもしれないけれど、「好き」じゃない。
という事なのではないかと思うのですよね。
本当はそんな難しいことじゃないと思うのです。
「好き」か「好きじゃない」か。
「気持ちいい」か「気持ちよくない」か。
自分の中にわいてくるものを感じれば、いいだけなのです。
人からどう思われるか?という他人基準じゃなくて、自分が気持ちいい・好き・こうしたいという、自分基準でやればいい、そこに気づければ、すぐに楽しくなれるはずなのです。
(あ。でもその教室では認めてもらえないかも…)
“正解”の蓋がちょっとずれて、”好き”があふれ出てしまうパターン
きっちり基礎から学ぶ、というスタイルではなく、ある程度自由にやっていいよ~という教室の場合、本当ならば自由でいいわけです。
なのに、ご本人的には「いつも同じ作風になっちゃうんです…」と不満足なご様子、という場合があります。
フラワーデザインの完成度的には十分たどり着けているので、「ちゃんとできてますよ」というジャッジになるのですが、奥にある彼女の”好き”とはたぶん違っているのだと思います。
整っている自分の作品より、隣のちょっと不格好に見える作品の方がきれいに見えてしまったりするのです。
整っているかどうかより、好きを表現できている自由な作品の方が魅力的に見えてしまうんですよね。
そんな時はただ無心でお花を見つめる、どこにいてほしいか?お花がどこでいたいか?なんてことを考えながら、身をゆだねる的なイメージで、自分の”好き”を探していってほしいな。。。と思います。
“好き”がただ漏れで表現できているのに”正解”ではないと悩むパターン
もともと一般的な”正解”に左右されるタイプではない方だと、自分の”好き”のびのび表現できちゃっていたりします。
フラワーアレンジメントのルールが守られていて、さらにそこに自分の好きをうまく取り入れながら、芸術点的にも上手にできているので、「上手にできている」と評価されるわけですが…
なかなかその評価を素直に受け取れない、という事が起こります。
何も意識せずにできしまうことを、自分自身で「できている」と認知するのは、意外に難しいことです。
だって、本人は息をするようにできてしまうから。
「頑張ってる感」とか「考えてやった感」がないとダメなんじゃないか?という思考に陥りやすいものです。
「がんばっていること」や「苦労してできたこと」がスバラシイという価値観に縛られると、もともと得意なものが自分の中で得意なものとして認められないってことが起こるのです。
これは、日常の中でもたくさん起こっていることじゃないですか?
得意なこと、特技とか聞かれると、「ない…」って答えるのですが、「〇〇得意じゃない」と第三者から言われる。でも、それに対して「そんなの誰にでもできるよ」って答えるし本当にそう思っている。
あるあるじゃないですか?
その場合は、結局ですね。自分の中の問題だったりします。
自分の中で生まれ出たものをほめられた=合格だってこと、できているってことだと、自分自身で認めてあげるってことが大切なんですよね。
何かに真剣に向き合うって結局自分に向き合うこと
なんか結局人の心の話になってしまいましたね。
でも、皆さんの中でも、自分はこれだなぁ…とか思うところあるのではないでしょうか?
フラワーデザインがうまくなりたいだけなのに、自分自身の心のクセと向き合うことになるとは~って感じですよね。
でも、何かに夢中になって向き合うって、結局自分を知って、自分に向き合うってことなのだと思うのです。
逆に言うと、フラワーデザインの上達という目標に向かうことで、自分の心のクセに気づいて、生きるのが楽になったり、楽しくなったりしたら、それはそれで一粒で二度おいしいことだと思うのですが、いかがでしょう???
かくいう私も、お花の教室の起業講座というものを作りたくて、動画講座を作るための講座を受講したのですが、自分の中のいろいろな考え方のクセに気づいては、もだえ苦しみました。
結果、自分の中にある、いろいろなことがうまくいかない理由となる障害物を認知するようになりました。
動画講座の作り方を学んだのに、得たものは、自分の思考のクセに気づくというオマケがついてきたんです。
何かを真剣に学ぶ、向き合うことによって、それ以上の何かを得ることができるんですよね。
うーん。お得。
自分の中の「好き」をもっとしっかり認めてあげましょう
これらのことは、生徒さんの様子から、菊池が考えたことです。
というのも、生徒さんが少しでも、楽に自分の満足のいく作品が作れるようになるには…と、中村と二人でいろいろ話して分析してるからなのです。
こういうことをすることで、どんな声掛けをしたらいい?レッスンをどんな風に組み立てたらいい?とレッスンを改善していくためのヒントになるのです。
普段のレッスンでは、中村はこんな話はしてませーん。ので、安心してレッスンにきてくださいね。
もちろん、分析してほしい♡方はいつでもどうぞ。
「好き」という感覚も「嫌い」という感覚も、自分の内側から湧いてくるものです。
湧いてくるものに、正しいも間違いもないのです。
自分の中にある本当の気持ちを大切に、それを認めてもらえる場で、それを表現できる方法を教えてもらうのは、本当に幸せな体験です。
にこはなはそんな教室をしています。
気になったら、まず体験してみてね。