ものすごい経歴を持っているわけでも、長く夢見て目標を達成したわけでもないにこはな講師・中村ですが、今はたくさんの生徒さんに囲まれて、日々幸せなレッスンをしています。
では、ここに至るまでどんな人生だったの? について語ります。
今回は、大学卒業からフリーター(!!)を経て、東京進出(笑)までです。
驚愕! 期待していた職場では女子に大きな仕事はなかった!
実は私、本意ではない大学に通っていました。
そのため、4年間よく何とかなったなぁ・・・と思うほど苦痛な毎日でした。
(何を学んだかって?生徒さんなら爆笑すると思います)
親元から離れての一人暮らしだし、通っていたのが超お嬢様学校だったのもあり、優雅に学校にサークルにエンジョイしているわけにはいきませんでした。
サークルのお付き合いを優先したかった私は、バイト三昧。
いくつかのバイトを掛け持ちしたり、渡り歩いたりしていました。
その中の一つにイベント興行を主催する会社があったのですが、イベントに関わるのも楽しそうだな、というわりと安易な気持ちで、大学卒業と同時にそこに就職しました。
実際に入ってみてわかったのは、”女子に任せてもらえる仕事は少ない” という現実でした。
「バイトではなくて就職すれば、もっと責任のある仕事を任せてもらえるに違いない」と考えた私ですが、実際にはバイト時代と変わらない仕事内容でした。
毎日毎日チケットを出力してまとめたり、お茶出ししたり。
「結局、やりがいのある仕事は男子にしかさせてもらえないのだ」
そうわかった私は、そこを辞める決心をしました。
仕事を辞める→収入がない→実家に戻るべし
という、私の信念のもと、実家に帰ることとなったのでした。
フリーター、日夜働く。時々居眠り。
実家に戻った私は、自分が進みたい道が見つかるまでアルバイトをして暮らすことにしました。
週に何回か某ドーナツ屋さんでバイトしていたのですが、お休みの日にもう一つバイトを増やそうと思い探していました。
そんな時、見つけたのがお花屋さん。
「そうだ。私はお花が好きだったんだ」という事実を、その時、思い出したのです。
そんな単純な理由で、お花屋さんでアルバイトをすることになりました。
そのお花屋さんは大手のお花屋さんで、私がアルバイトに入ったのはホテルの店舗。
基本的にはパーティーなどが行われる大きなホテルでは、その会場装花を一手に引き受ける業者がいて、一般向けに店舗も持っているのです。
(規模が大きいホテルだと複数の業者の場合もあり)
私の仕事は水やりとお花の整理と店番。
その他のお花の制作は社員さんのお仕事でした。
社員のお姉さんがやってきて、てきぱきと制作を始めます。
てきぱきとしたお花を挿していく手さばきに反して、お花と向き合うとふわっとやさしい顔になります。
その「お花が好き」「お花が愛しい」という気持ちがひしひしと伝わってくる素敵な表情を見ているのがとても好きでした。
一通り作業が終わるとまたまた一人。
宴会場の現場では何が行われているのかをほとんどしらないまま、店番の日々でした。
そこは田舎の高級花店。
そうそうお客様なんて来やしません。
ということは。。。
一通りやらなければならないことをこなしたら、自動的に眠くなります。
そんな自然現象に負ける日々を送っていた私ですが、いきなり目が覚める出来事が起こります。
ついついふすまを開けてしまった! その中で行われていたのは…
ある日、用があっていつもは行かない宴会場に行くことになりました。
ギイ・・・・
社員の方が作業している宴会場の扉を開けた時、衝撃が走りました。
そこにあったのは、これまで見たことにない美しい空間。
ツボのようなものからお花が零れ落ちるような、そんなデザインだったと思います。
“お花というツールで、こんなすごい作品が作れるんだ。”
そして、いつもやさしい顔でお花をアレンジしていた社員のお姉さんが、その現場で華麗な手つきと動きでさささっと作品を作っている姿も見てしまいました。
女らしくお花を見つめる姿と男性に引けを取らない格好良い姿のギャップがまた格好が良くて。
普段あまり心が揺さぶられることのない私ですが、この時の光景・感動は今でもはっきりと覚えています。
ものすごい衝撃を受けた私が、「すごい!」という感動から「私もこういうのが作れるようなりたい」という気持ちに変わるまでにほとんど時間はかかりませんでした。
高校に入るときも、姉が行っていたから、という理由で選んだだけでした。
大学も私の成績で入れるところという残念な理由でした。
就職もそこでアルバイトしていなかったらそこにしなかったと思うし、ましてや入ってすぐ現実に気づくという。。。
そんな私が、初めて自分の中ではっきりと「やりたい」が頭の中で形になったのでした。
今の私からは想像できないような行動力で、社員さんに相談し、トントン拍子で東京で採用してもらえることが決まったのです。
(この時お世話になったみなさん、ありがとうございました!)
そして、フリーター時代はそれほど長くは続けることなく、東京に進出しました。